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2005 ヒマラヤトレッキング旅行記 A
 ヤッシー記

10月16日(月)
(ナムチェバザール→タンボチェ〔3867m〕(泊) 

ナムチェバザールを7時19分に出発。ナムチェを後に見ながら上り道を往く。途中、軍隊駐屯地の下に位置したヘリポートに、横倒しになったままのヘリコプターを見る。着陸に失敗し、狭地で高地で、どうにも処理できずにそのまま放置してあるそうだ。峠まで出ると、エベレストが見える。3度目のエベレスト。ああ、そのふもとまで行きたいなあ、という感慨。老人がヤクを世話してここで休んでいる。ここから下方の急な斜面の草を食べさせているようだ。ヤクの道がその急峻な斜面に規則正しく九十九折(つづらおり)になって付いている。ここからは下りだ。途中でゴーキョーピークへの道との分岐点に出る。本当は行く予定の場所であったのだが。

途中でティータイムということで、サナサ(8時57分着)の茶店に寄る。
 チャー(ミルクティーのこと。こちらでは普通の飲み物で、シェルパ族の飲み物。)を飲む。ここでトイレに行きたくなり、トイレを借りる。と言っても少し離れた、斜面のところに設置してある。トイレの戸を開けると真ん中に穴が楕円形に開いていて、斜面に向かって斜めに枯葉(ちょうど桜の葉位の大きさ)が一杯見える。と同時に、その穴の前方壁のところにも、枯葉が一杯積んである。つまり、排便後は枯葉を落とすようにということになっているようだ。初めて経験するトイレ形態だ。多分、枯葉と糞便が混ざって、丁度良い肥料になるのだろうと想像する。小生が終わって立ち上がって下方を見ると、ティッシュペーパーの白い紙の鮮やかさが目立つではないか。ええっ??とすると、ここの人達は糞便後に何で拭くの?まさか枯葉で?いや、葉っぱの面積はそんなに大きくないし、そんなこと至難の業だし。ペマさんに聞くと、糞便後には拭かないのだそうだ。でも、最近の若い人は紙で拭くとのこと。ここは田舎だし、拭いていないのだろう。この休憩したところでは、土産物を道端に広げて売っている。ヤクの絵を描いたヤクの毛で織った敷物(30cm四方の大きさ)が気に入って、買おうとしたが、値段が結構高くて中止。だが結局帰りに買ってしまった。大小のマニ車も売っている。
 やや降り道を歩く。途中で、チベット人商人が10人ほどバザーを開いている村に着く。ペマさんが、我々がはいていると同じ登山ズボンを欲しがって(この時はジャージーをはいていた。)交渉をする。中国製でも、安いズボンを探していて、それをこのチベット人商 人が持っていたようだ。大きな橋を渡ったところの川沿いのロッジに到着。
 
↓チベット人から中国製のトレッキングズボンを購入中
↓ 牛糞集めの少女

ランチを摂る。10時21分着。ここではダルバートを食す。ここのダルバートがとてもおいしかった。今迄で一番おいしいと思う、というより、馴れてきたのかもしれない。
 ここでは、川沿いと言うことで、大きなマニ車6台が水力で回っていた。ここのトイレは水洗式だ!!といってもそのまま川に流れ込ませてあるのみ。ここの川は上流に近いので、流れが速く、激しい上にとても冷たい。このまま下流へと思うと、不衛生極まりないのだが。他に、中国系の若いカップルが何やらちゃらちゃら、いちゃいちゃしていた。ファッションも山歩きの格好ではなく、派手なハイキングスタイルだし、ただ金持ちらしく、良いものを持っている感じだ。また、山から降りてきた連中の中にペマさんと同じ村の出身者のポーターが3人もいたのだ。20日前に会ったとのことだが、結構話が弾んでいる。うれしそうだ。
 ここから、タンボチェまで、全て上り道。前半はかなり急な坂道で、反対側は千尋の谷だ。だが、後半は山道なので、登り易い。途中からは7000m級のタムセルクの雄姿が眼前に見え、迫力満点だ。それでも、12時55分には着いてしまった。到着したは良いが、泊まる部屋がない!結局テント泊となる。なぜか?@ここには5件のロッジしかなく、国立公園ということで、増設を認めていないので、絶対数が少ないA奥地へ行くも、帰りの分を予約をして行くことから、既に宿泊が埋まってしまっているからだ。我々の後に着いた、イスラエル人の青年男女8人のグループはロッジの中の長椅子で寝泊りだ。普通ここは、ガイドや、ポーターたちが寝泊りする場所で、今回ペマさんは寝るところがなく、私と同じテントでの泊まりとなった。でもいくら二重張りテントといっても寒さがしのげるか不安だ。

寝るところが決まり、取り敢えず散策をする。ここタンボチェは正直言って、想像以上に素晴らしい。360度雄大なパノラマを見せる。東正面にノプチェ〔ヌプチェ?7861m〕、ローチェ〔8501m〕、ローチェシャハルの山並みが見え、そのところに少し頭を出しているのがエヴェレスト(シェルパの言葉ではチョモランマ)、南の方はカンテガ〔6685m〕とタムセルク〔6608m〕。ノプチェから北の方はパンブチェビク、マッチェルモ等々が見え、本当に囲まれている感じだ。どこにもない雄大な、そして歩くことのみでしか到達できない、見えない風景だ。そう思うととてつもなく感激する。日の光で、雲の状態でその角度でも一瞬一瞬変化し、色も風景もたちまち変わってゆく。エヴェレストに雲が掛かれば太陽が遮られて黒っぽい色へと変わり、右方のタムセルクは日光が当たったままで、氷の覆われたその白さとの対比がすごい。刻一刻と変化するその容姿は見飽きることがない。
 

↑ エヴェレスト、ローチェ山群 ↑

↑ ダムセルク

↑ 下方はタンボチェボンバ

飛行機で、車で、簡単に望む場所まで行けてしまう現代で、このような場所があると言うことが貴重だし、自然保護の意味でも最高の状態だ。ただ、トイレだけは疑問だ。ここのロッジのトイレも、崖の上にあって、埋めることも浄化もなしにそのまま真下へ落下させているだけなのだ。そして、燃料もまきを使用している。もっともガソリンにしてもポーターが背負ってルクラから登ってくる(あるいはシャンボチェ空港からかもしれない)から高価なものであるには違いない。高地で木もほとんどない上に、シーズンとなれば登山客が引っ切り無しに泊まって行く。どんどん禿山となるのだろう。もちろん団体客はポーターがテーブル、椅子、プロパンガスボンベ、ガソリン、食料を背負って同行しているから、その点の心配はないが。この日も日本人客約10人がエヴェレスト・ベースキャンプ方面から下ってきて宿泊していた。ただし、食事はロッジの横にある団体客専用の炊事場で調理していた。ポーターたちが作った料理をロッジ内に持ち込んでの食事だ。
 ここはタンボチェボンバという寺院が有名で、登山客は皆寄るところだ。お祈りの時間が午後3時ということで、少し時間があることから付近の散策に行く。正直なところ、今回の旅では最高高度地点がここ。しかし、なんとしても4000mを越えたいという思いと、高度を稼ごうという卑しい思いから南側にある斜面を登り始める。途中の中腹にストゥーバが見え、ここからお経が書いてある20センチ四方ほどの布が3、4本のロープに連なって吊るされ、はためいている。サンダルであったが、この付近まで登ってみようと。高度はカシオの登山用の腕時計での計測で確認しながら4000mに到達!!〔でも後日ガイドブックを確認しながら、タンボチェの3867mから換算すると腕時計がいい加減で、アバウトすぎて、どうも越えてはいなかったようだ。ただ、かなり近いことは確か。こうなると再度5000mへの挑戦を考えてしまう。〕ふもとから20分ほどで登れてしまったので、もう少し脚を伸ばし、腕時計で4005mを示すところまで行く。眼下に僧院が見え、向こうにはパンブチェビクも良く見える。感激もひとしおだ。もちろんエベレスト山もはっきりと見える。見ているうちに涙が込み上げ、嗚咽(おえつ)となってしまった。ここが最後とも、努力してきた甲斐があってやっと見えたことに、それともエヴェレスト山の美しさに?? 感慨か?感動か?自分なりに健脚で、無事にここまで歩いてこれたためか。実は膝が痛いのだ。登りだと鈍痛がする。でも大丈夫。限界ではない。余裕はある。今日も含め、ほぼ毎日3〜4時間の行程なので、余裕がある。1日6時間でもOKだ。実はこの行程は富士山と異なり上り下りが結構交互にあって、登って疲れても平坦な道になったり、下るとか。その意味では楽な道程だ。今日ももう少し足を伸ばせるのだが、聞いてみるとこの先の宿泊所は景色が悪いとのこと。正直のところ、ここタンボチェは360度の景観が素晴らしい場所で、ペマさんの言うとおりだ。山すそに広がる突き出た台地の上にここタンボチェがあることは、翌日のクムジュンの地点から見ると良く判った。
 ここの壮大な風景を眼の辺りにすると、来て良かった、と心から感激し、心の癒しを感じ、再度の訪れを確信してしまう。今度はアンナプルナ、それおともカタルバール方面(エヴェレスト・ベースキャンプ)?


↑ タンボチェ西方を見る

↑ エヴェレスト

↑ タンボチェボンバ内部

↑ 夕暮れのタンボチェ

↑ 団体客専用キッチンスタッフ

↑ 夕焼けのエヴェレスト山

下ったところで、若い日本人女性2人に会う。小生が登った中腹ストゥーバ付近まで登るがどのくらい掛かるのかという質問であった。
この後僧院(タンボチェボンバ)へ行く。3時からのお勤めで、登山客が結構な人数で、今まさに、目の前に赤く染まったエヴェレスト山が、上1/4位が見える。美しい。しかし、寒さが。もっと観たかったが、寒くていられない。ロッジの中へ。中はストーブが焚かれ、26.4℃と温かい。日本人グループ11人がキッチンスタッフを伴って、宿泊している。そのスタッフが外の炊事場から調理品を作って、持ち込んでくる。インド系のスタッフが給仕をしている。何か場違いな雰囲気を感じたが、ペマさんに聞くと、欧米人も料理内容が異なるだけで全く同じ様とか。まあ、グループであればそんなものかな?
 夕食は卵とじのケチャップスープと茹でたじゃがいもに溶けたチーズが垂らされたものに、目玉焼きを食す。うまい!これも慣れからうまいと思うようになったのか!?何とも今晩の夕食風景はにぎやかだ。ストーブにまきが一杯放り込まれて、熱い。イスラエル人達はTシャツになり、窓を開けて調整している。机の上に小型のスピーカーを置き、ロック音楽を流している。客が多く、シェルパたちへの食事も遅い。常に客が食べ終わってからが彼らの食事時間だ。夕食後、メモ帳に日記を付けていると、反対側にいる日本人グループの人が私を指して、「あの人も日本人ではないのかしら?」と言っているのが聞こえるが、無視をし、黙々とメモを書き続ける。飽きて、ストレッチ体操をする。本も無く、ペマさんとは宗教や、人生・人間とは?などの込み入った話はできないし、結局書くしか時間つぶしができないのかも。今回のたびほど紀行メモを残すたびも初めて。常は、夜遅くまで街を歩き回っているからだ。ホテルは寝るだけ。時間が有れば、人々の生活を垣間見るために歩き回っている。何か発見が、何か知ることがある、との思いで。でも、ここ4000mの高地では歩き回れないし、外は真っ暗闇だ。
 寝るために外へ出る。寒い!!キッチンスタッフが鍋や食器を洗っている音が響く。彼らは若く、何かわびしい思いが募る。
 テントの中は臭いし、布団は重いし、毛布を2枚くれと要求しても一人が1枚の割り当てのみ。とても寒く、眠れないと言うと、ペマさんが、僕は布団のみでいいよと言ってくれたので、毛布を2枚と、重い布団を1枚もらう。最初はパンツにTシャツと長袖のセーターを来て寝出したが、寒くて寒くて途中で起きて、トレーニングウエアの下と、厚手のスポーツシャツ、フリース生地を着て寝る。それでも寒さが忍び寄ってくる。夜中何度か寒さで、眼が覚めてしまう。夜は8時過ぎに寝だしたのだが、キッチンスタッフの話し声やら、物音に寝付けず、朝は早くからキッチンスタッフの朝食の準備の音やらで、寝たのか寝ていないのか良く判らない。
 石けん、本そしてタンボチェより上に行くには寝袋、ホカロンが必須携行品。あと、洗濯用石けん、ひもも長期で、丸1日休息日があれば必要だ。帰国後、マヤトラベル社に話をすると、「えっ、寝袋は持っていかなかったのですか?当然必要です。」と言われてしまった。

10月17日(火)
タンボチェ→クムジュン→エベレストビューホテル→シャンボチェ→ナムチェバザール(泊)

10月17日 タンボチェ7時22分出発→サナサ9時24分着→クムジュン〔3780m〕11時過ぎに到着。13時50分に出発。→ナムチェバザール14時50分着(泊)

 朝、6時10分にペマさんに起こされる。「Sunrise!」と。テントの外に出て、山並みを見ると、エヴェレスト、ローチェ群の上半分位が朝日に映え、赤く染まっている。赤と言うより、橙色に近い色だ。御来光を観るよりはるかに感動的光景だ。地面は霜が降りて、真っ白だ。吐く息も白い。0℃近くまで冷えたのか?
 食堂へ行くが、イスラエル人達がまだ寝ていて、座れないので、台所の方へ行って、かまどの火で温まりながら待つ。かまどは一つで、燃料はまき。順番に調理をするので、出てくるのも一つずつ。スープが先で、15〜20分後にパンケーキという具合。
 食堂は暖かく、アップルパンケーキ(パンケーキの上にスライスされたりんごを載せて焼いてある。)とトマト卵スープを食す。昨日はここの洗面所で久しぶりに石鹸(ここに備え付けの)で顔を洗う。朝はお湯も出た!


↑ エヴェレスト山

↑ ロッジの朝の台所

朝、タンボチェを7時23分に出発。山を降り、約1時間で川沿いのロッジに到着。ここから上りになり、途中のサナサに9時24分に到着し休憩。チャーを飲む。ここで、往きのときに買わなかったヤクの毛で編んだ座布団様のものを買う。クムジュンへの道のりも登りばかり。ただ、緩やかな坂道と、急な登り道が交互に現れる感じで、意外に登り易い。途中で、紅葉した木々を見る。秋ではあるが、そんな感じは意外にもしない。結構さわやかで、暖かい感じだ。
 クムジュンのロッジに荷を降ろし、イエティ(雪男?)の頭皮が展示されていると言う寺へ行く。

↓ クムジュン(東方

↓ 井戸端会議?


↑ イエティ頭皮

↑ ヒラリースクール

↑ロッジの全景

↑ 昼食を摂ったロッジの台所

ここクムジュンは北側にはさほど高くない山が迫り、盆地風のところだ。民家の屋根が総て緑色に統一されており、家の周りにはヤク用の石垣で囲まれている。一階が牛小屋で、二階が居間となっており、洗濯物は石垣に干してある。日差しは強い。

エヴェレストに初登頂した、ヒラリー卿の名前を冠した小学校から高校までのヒラリースク−ルが有る。彼が寄付して作られたとのこと。そして、植村直巳がエヴェレスト登頂への高度順化のために1箇月滞在した村でもある。少し登ったところに僧院が有り、着くと先客の欧米人達がいたので、すぐにお堂を開けてくれた。中は普通の僧院で、イエティの頭皮と称する物はスチール製の戸棚に鍵付きで保管されており、見るには何がしかの寄付をせよと言う。50ルピーを寄付箱に投入すると開けてくれて、撮影もOKとのこと。しかし、猿か何かの頭部のように見え、頭髪も薄茶に見える。昔からここにあるというが…。外に出ると、欧米人が地元の子供のアップ写真を撮っていた。素朴な、子供らしい人懐っこさを感じる子供達だ。確かに、写真で記録に残そうと言う気持ちも理解できる。また、水の出る広場のようなところ(山から引いている水が常に出ている)には、昔で言う「井戸端会議」と言える、何人かのお母さん達が集まって、洗濯をしていた。盥で洗って手で絞る、昔ながらの洗濯風景だ。子供達も一緒に遊んでいる。原風景がここでは今だ。

 このあとロッジに帰り、昼食を摂る。「モモ」という餃子に良く似ている食べ物(蒸気で温める)で、中に水牛の肉が入っており、まずくは無いが、皮が厚い。10個あったが、6個をペマさんに差し上げる。スープは野菜スープ。ここで、ペマさんがシェルパの飲み物バター茶を飲んでいたので、どんな味か味わってみた。ヤクのバターと茶葉のみの飲み物で、甘さは全く無い。何か腹を壊しそうで、止めてしまった。本当は味わいたかったが…。月曜日の午後の暖かいが、強い日差しが照る。ロッジの南側はヒラリースク−ルがあり、間が広場となっている。1周400m位のグランドのようなところで、お祭りや集会に使われるのかな?と思われる。しかし人がいない。ぱらぱらと人通りがあるのみ。

 でもロッジの長椅子に、ここの娘の教科書が置いてあり、見るとコサイン、タンジェント等が書かれているのではないか。4000m近いこの地でも、ヒラリースク−ルで高等数学を学んでいるのだということを知った。もちろんシェルパのペマさんも勉強しましたと言っていました。彼はどうもネパール大学に入学したものの、学費や家計(妻子持ち)の問題から、ガイドとして働いて収入を得るために休学しているようだ。ただ、ガイドとしての収入が安定すればそのまま定職としたい、そしてコネができれば、日本に行ってお金を稼ぎたいということだ。


↑  アマダブラム

↑ 遠望(左端がエヴェレスト。ローチェ

 13時50分に出発。盆地のクムジュン村を背後に、ここから登って行く。静かで、人も少なく、太陽は強い日差しで村を照り付けている。なんと静かだろう。ところどころに雲が漂いつつも、空は蒼く澄明。

 登りきったところに、日本人経営の「エベレストビューホテル」があり、1泊350ドルだとか。私には縁が無い!!名前の通り、ここからエヴェレスト山が見える。タンボチェから見える光景と異なり、何かやさしさと、宇宙の一角に存在するという一体感を感じる。ローチェ、アマダブラムも鮮やかに見える。空を移動する多様な雲、雲の陰から射す光、刻一刻と顔を変化させるエヴェレスト山と近くの山群、見飽きない。岩の上に座って、見続ける。タンボチェでの360°の景観も感激だが、ここからもとても素晴らしい。20分くらいいただろうか?名残惜しく居座ってしまった。でも、雲が出てきて、エヴェレスト山が見え難くなり、下山をする。次のクンブマウンテンビューホテルが最後のポイントだ。雲の切れ間でエヴェレスト山が見え、タムセルクの偉容がとても美しい。歩きながら、立ち止まって、見える山並みには本当に「美しい!!素晴らしい!!」との感嘆符と感動する心が存在する。しかし足元は急峻な谷へ続く角度の鋭角な斜面が見える。深い、深い谷へ。足を踏み外して、谷川へ落ちれば、どこまでも止まらないで落下していくほどだ。そして、この斜面にもヤクの道がちゃんと付いている。草を食べさせるためだ。この道からサナサの村が見える。自分の足で歩いてきたのだ、という感慨が。


↑ シャンボチェ空港

↑ ナムチェバザール

後は下りで、途中シャンボチェ空港(ヘリコプター専用。基本的には荷物を運ぶための空港で、木材、家具、電化製品等を運んでいる。この日は建築関係資材を荷卸していた。)を通過して、ナムチェまで一直線で下山。距離も、時間も然程のことではないが、厳しい下り。途中で、何組何人かの登りと出会う。多分エヴェレスト山を見に行く人々であろう。

ナムチェの宿「Moon Light」着14時50分。部屋は一昨日と異なり、谷側の景色の良い、ベッドも広い部屋だ。でも、木造で、板だけで建ててあるので、物音は丸聞こえだし、足音がギシギシと唸る、安普請。

← 旅館の前。ヤクの背中の敷物を購入した。

荷を降ろして、買い物に行く。目的はヤクの背中に荷を乗せるために、ヤクの背中に敷く敷物だ。その柄と言い、何ともいえない生活感の滲み出た織物、しかもヤクの毛100%を使用しているのだ。運搬用のヤクに着けられている敷物を見て、何となくいいな、という思いから是非土産に買って帰ろう、という意思に代わったのだ。ありふれた土産ではなく、特徴のある、しかも一生の記念となる物だと。厚さは1cm位で、丈夫そのものだ。みやげ物店を探すが、さすがに売っていない。土産屋で聞いた時にたまたま、ヤクを何頭か持っているという人の家にあるということで、家まで付いてゆく。確かにヤクを飼っている。何枚か出してきたが、中古品は汚いし、新品も柄がイマイチであまりよくないのだ。途中で見たヤクの背中にあった柄がよかったのだが。まあ、妥協して、1枚33ドルで購入する。しかし、結果自宅でもおくところがなく、隅にほかってある状態。玄関マットにしては品がなく、来客者では理解していただけない代物だし。

食堂兼居間で、外国人ばかり、皆集まっている。日本人はいない。ロシア?東欧?のティームは、初め私が行こうと予定していた、目的地ゴーキョーピークから、1日でナムチェまで歩いてきたとのこと。すごい健脚だ。20時33分。昨夜はテントで寒くて寝られなかったが、以外に眠くない。ドイツ人グループは本を読む人、夫婦でトランプをしている。チェコ人はビールを飲みながら話をしている。また、宿のオーナーの娘はアメリカへ留学しているとのこと。自分自身もアメリカへ出稼ぎに行き、その資金でロッジを建てたとのこと。その関係から、アメリカでの雇い主であった人に身元引受人になってもらって、娘を留学させることができたらしい。写真を見せて、説明してくれる。娘は働きながら学んでいるとのこと。

今日で丸4日間風呂はもちろんシャワーも入っていない。まだあと、2日間も入れない。洗濯もできないし、着替えもしない。でも、ドイツ人夫婦は下着を洗濯し、物干し竿に干していた。それが、黒のTバッグではないか!日本人であれば恥ずかしくて干さないところなのだが。感覚の相違か?

← ロッジからの夕景 

ペマさんが次回はアンナプルナへ行ってみては?とても景色が綺麗と、誘ってくる。トレッキング費用も日本の旅行社を通さずに直接自分に依頼してくれれば、食事、宿泊費、荷物運搬、ガイド料金含めて40ドル/日で、10人集まれば、1人分は無料とのこと。 

この4日間晴天が続き、景色も素晴らしかった。空気は清澄で気持ち良く、乾燥している。水分は結構取っているつもりだが、小便の回数は少ないのだ。登りは汗が出るから納得するが、今日のように下りの楽な行程でも、回数は少ない。やはり乾燥した気候で、皮膚からの蒸発が激しいのか?このトレッキング中は日常での食事量より多く食べているが、それでも、ペマさんの半分だ。食べる方が高山病対策にもなるという話で、食べてはいるが。このロッジで売っているコカ・コーラは中国湖南省産、オレンジファンタはシンガポール産で、パインナップルジュースはベトナム製造。チベットを経由して、入ってくるとのこと。やはり中国産が多いようだ。


10月18日(水)
 ナムチェバザール→ルクラ(泊)

 ナムチェを8時25分に出発する。途中モンジョでコーヒーを飲み、パクディンには11時48分に着く。ランチはツナピザと人参スープ。ピザはかまど焼き(というより、電気、ガスが無い)なので、とても美味しい。下りばかりなので、膝が踊り、結構疲れる。適度に上り下りがある方が楽だ。途中はナムチェを目指すかなりのソッギョの荷物運びと登山者の群れで、行列の如くの登山道(いや、本当はシェルパの生活道路なのだが)だ。途中、エヴェレストビュウポイントが2箇所あり、いずれも晴天でよく見えたのだが、低いところからなので、かろうじて見えるというだけで、美しさが無い。でも、最初に見えるポイントではローチェが際立って聳え立つ風情が素晴らしく、エヴェレストとの対比が美しかった。それまでのローチェは同じ並びで特徴が感じられなかったが、なぜか、このポイントではその雄姿を示している。
 


↑ ナムチェの朝。下山道から。

↑ ナムチェ北方

ランチを食べたあとは元気に出立し、順調に進む…とはいかなかった。たった20mの橋が工事中で、登って下っての大廻り。それも急峻な山肌の木立の間を上るのだ。われわれですら、狭く、急な木立を登って、苦労しているのだが、ソッギョを連れた、シェルパはもっと大変だ。まずソッギョの荷物の重量が並ではないので、なかなか言うことを聞かないのだ。ソッギョを叱り付ける掛け声ばかりが谷にこだまするが、ソッギョは思うようには動かない。そしてもっと大変なのはポーターたちだ。高さ2〜3mくらいで、重さは30〜40kgにもなる荷物を背負い、6〜70cmくらいの杖で、バランスをとりながら、下ってゆく。頭の下がる思いだ。この大廻りが往路であったならば、モンジョまでたどり着けなかっただろう。帰路で良かった。約1時間のロスになった。ルクラ着16時25分。2時間30分でパクディンからルクラまで下ったことになる。総計8時間の下り。さすがに疲れる。ゴーキョーピークからナムチェまでの距離に匹敵するとのこと。

 ロッジはここルクラが一番良かった。部屋にトイレ、洗面台が着いている!広さも、布団のよさも格別だ。平地に近いだけ、サーヴィスも良い。ここで、初めて、ネパールのTV放送を見る。同じコマーシャルを何回も短時間で放映していた。今夜は外人2人組とわれわれのみ。

自分へのお礼を込めて、コカ・コーラを飲む。中国産で、普通の味だが、冷えていないので、うまくはない。

 これで、今回のトレッキングは総て終了した。体力も、体調も総てが思い通りの状態で、心底満足の旅であった。限られた日程の中では最大限の内容を味わえたと考えている。初めの計画通りに、ゴーキョーピーク、カタバールまで行くことができればチョモランマ(シェルパ語)が眼前に見えると言う。そして、アンナプルナの美しさもすごいと言う。さて、次回は何処へ。今回の行程でゴーキョーピークでもカタバールでも、高山病さえうまく克服できれば歩く自信は付いた。

 自身の足で歩いて(車、飛行機を利用せずに)行くことに価値があり、意味がある。トレッキングの本質かも。美しい山群を車ですっと通り過ぎてはその感動も薄いのでは?


↑ ルクラの飛行場

↑ ルクラへ向かう飛行機

10月19日(木)
  ルクラ→カトマンズ(泊)

朝、ルクラから飛行機で、カトマンズへ。

 飛行場は一杯だ。これだけの人がどこにいたのだろうという位多い。ほとんどが欧州の人たち。荷物重量検査も昔ながらのばね式秤である。

飛行機が3機カトマンズから到着する。空港のセキュリティーを通過時に、ストックを持って機内に入ろうとしたところ、それは持ち込めないので、リュックサックと一緒の荷物で機内へと言うことで、ペマさんが機内搬入用荷物のところまでストックを持って走って載せた。

機は、今度は谷底に向かって、離陸する。絶壁へ出た途端にすうーっと落下するが、徐々に機は高度を上げ、山の間を上昇する。 山また山が続き、生活をしている人々の様が見え、厳しさが伝わる風景と言ってもいい。

 カトマンズ空港に無事到着し、ホテルには10時過ぎに着く。早速シャワーを浴びる。水が冷たいにもかかわらず(湯が出ない!)、気持ちは良い。何日振りだろう?6日ぶりだ。

 ペマさんもシャワーを浴びにアパートに帰った。

 昼食を食べにタメルハウスへ行く。ここはカトマンズ市内で一番のネパール料理の高級料理店とのこと。午後は市内観光で、スワヤンブナートへ行く。カトマンズ市内が一望できる見晴らしの良いところだ。その後に数珠を作っていると言うペマさんの友人宅を訪れる。

マッサージ店へ行く。マッサージは1時間800ルピーで、マッサージなしの、ジキジキのみの場合は1000ルピー。インド系の顔立ちの女性を指名する。年齢は27,8歳くらいか?まあまあいい女で、受付が2階で、ベッドの置いてある部屋は4階。いずれも電気はついていなく、蝋燭の明かりのみ(大雨で停電したため?)。部屋は殺風景で、ベッドもシングルサイズ。それもベニヤ板で作ってある安普請だ。クリトリスをいじると感じてきて、それを拒否しようと手をどけるように邪魔をし、こちらのペニスをしごき出した。陰毛は薄く、肉感的であったが、陰部からの臭いがきつい。手にその臭いがいつまでも残っていた。コンドームをはめてくれて、挿入するが、安物のコンドームで心配だ。ただ、挿入するたびにきつい臭いが立ち込めて、意識がそちらに向かってしまい、ペニスはしぼんでしまった。陰部から抜去したところで、広告の紙でコンドームを包みながら抜き去ってくれる。実は翌日も行ったのだが(もちろん異なる女性であったが)、陰部からの臭いが同様に強烈で、挿入するもだんだんとしぼんでしまった。多分同じ食事を取っているためか、民族的なものかは判明しなかった。ペマさんも、バンコクの方が女の質は良いと旅行者は言っていると。カトマンズではなく、バンコクで遊ぶようにとアドヴァイスしてくれる。


10月20日(金)
  カトマンズ(泊

19,20日ともに大雨のカトマンズ市内。今年の雨期に、雨が少なく、作物が不作であったとのこと。また、乾期のこの時期にこれだけの豪雨もまた珍しいとのこと。雨期にはあるとのことだが、本当の土砂降りで、さすがに登山靴の中には入ってこないが、ジーンズの膝から下はびしょ濡れになっている。
 この日は一人で市内観光だ。朝、ホテルを出るときは晴れの気候であったが、ダルバール広場へ向かう途中で、見る間に雲行きが怪しく、ポツリ、ポツリと雨が降り出したので、15分歩いた道をホテルまで引き返し、傘を持って出、今度は中心部へ向かう。
 まず、ガイドブックに載っているアムリタ○○センターへ行くが、場所が判らずさまよっているうちに「ちくさ」という日本名の、本格コーヒー店へ立ち寄る。店内は10坪くらいの狭い店で、といっても、この街の店自体が狭いまま、連なっている。コーヒー1杯60ルピー。味は悪くない。普通の味だった。この「ちくさ」の隣が、キーホルダーを売る土産物屋で、水牛の角を加工し、彫ったもので、1個75ルピーとのこと。まとめて買うと安くなるとのことで、10個を買う。1個当たり45ルピー。念のために他の店で値段を調べたところ、95ルピーであった。実は夕方にもこの店へ行って追加で10個を購入したが、そのときは1個40ルピーになった。
 ボーダナート寺院へ行こうと途中でタクシーを拾う。寺までの往復と、寺での待ち時間を1時間15分として、500ルピーで決めるが、ガイドブックには片道で100〜130ルピーとあり、少なくとも200ルピーは損をしたかもしれない。このボーダナート寺院へ着いた頃から雨脚が激しく、寺院を歩いている人はほんの数人という有様。タイから来た中国系の家族らしき人たちが、眼の描かれた付近で集合写真を撮っているくらいだ。ここでも必ず右回りで歩く。仏塔の周りにマニ車がずらっと置いてある。この寺院の周りもいろいろな寺が存在し、亡命チベット人たちがここに住み着き、彼らチベット仏教の伝統を守っているとのこと。確かにチベット風の土産物や仏具を売る店が軒を連ねこの一体を占めている。食堂もチベット料理で、トルマールを食す。シェルパスープに肉と細うどんが入っている感じで、まあまあ食べられる。


↑ 砥いでいる

 

↑ 薬草店
i
↑ ボーダナート寺院

↑ 数珠を作っている

 


10月21日(土)
  カトマンズ→大阪国際空港

ホテルを9時30分に出て、空港には15分で着いてしまう。しかし、空港のオープンが10時30分で、見送りのペマさん、旅行者の社長の娘二人と、写真を撮りながら、45分を費やすが、話のネタもなく(社長の長女は英語で、妹の方はネパール語のみなので、会話が弾まない。)、オープンが待ち遠しい。 

 〔バンコク→大阪国際空港〕

 バンコク到着から、関空出発便(TG622便)まで時間が5時間くらいあることから、一旦空港の外へ出て、市内を散策(女遊び)しようと考えたが、市内が交通渋滞であることで、間に合わない不安、そして空港利用税500バーツが、再度掛かることを考えて、やむなく、空港の中で時間を費やすこととした。
 空港内の出発案内放送が英語で、よく聞き取れないので、表示板を頻繁にチェックする。放送で、確かTG622便と言ったと思って表示板を見、指示されたゲートへ行くが、大混雑。バスで機体のところへ行くゲートで、そのゲートがたくさんある上に、出発時間が集中しているので、乗客が殺到し、イモ洗いの状態。しかも、セキュリティチェックが厳重なので、遅々として進まない。出発時間は迫るし、進まないし…。まあ、途中であきらめて、どうにかなるだろうと悟る。やっと機内に座ったところで、1名乗客が搭乗手続きをしながら、未だにこないということ(多分市内に出て行って、交通渋滞か何かで空港到着が遅れたであろうと察する。)で、安全上の措置として、当該乗客の手荷物を機内格納庫から下ろすからしばらく待てと。やっと出発した時点で、40分近くの遅れであったが、関空到着は30分の遅れであった。
関西国際空港へは7時52分着。トランクの方を税関で開けよと言われる。担いでいたリュックの方は結構ですと。どうも大麻所持を疑われたようだ。ただ、こちらはタバコ1カートンを余分に所持しているので、ヒヤヒヤであった。バンコクの空港免税店で買った1カートンのタバコを、免税店の袋に入れて手で持ち、トランクには往路に関空で購入した1カートンが免税店の袋に入っていたのだ。官吏はトランクの中をひっくり返しながら「何か違法なものは持っていないですか?」と2度も質問したが、「いえ、持っていません。」と冷静に答えると、そのまま済んでしまった。トランクの中は土産の仏像とか、菓子のカレー味乾燥麺等が入っていたのみ。もちろん不法なものは所持せず。タバコは見つからなかったので助かった。
 帰路は関空から鶴橋までJRで出て、近鉄に乗り換え予定であったが、空港出口で、バスが上本町まで行っていることを発見。手荷物を持って乗り換えることを考えるとバスで移動するほうが楽と考えて、急遽変更する。料金は1300円で、時間は42分で到着(平日であれば50分かかるとのこと)。

プライベートな記述部分(最後)と、小生の写ってる写真をカットしましたが、後は修正していません。もっと書き込みたい部分もあったのですが、記憶が薄れて書けませんでした。2008年年11月にもトレッキングに一人で行く計画でいます。今度はアンナプルナ周遊コースで、2週間歩いて(出発から帰国まで3週間)、ムスタン入り口付近まで奥に入ります。最高高度は5400mまで登ります。このコースは長いので、日本人はほとんど行かないコースですが、欧米人にとってはヒマラヤ街道コース(この旅行記)に次いで、2番目に人気のコースとか。費用は総てで20万円です。希望される方は多分いないとは思いますが、一様案内まで。

ヤッシー記

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