ある一言                                ヤッシー記


「死ぬということは、笑い落胆し大騒ぎした魂と肉体が大自然に吸収され
 存在しなくなることである」

「医の名言 生きる糧となる45の言葉」(中公文庫)荒井保男著より

ヴィクトル・E・フランクル編

       
フランクルは1905年、ウィーン生まれの精神科医。戦争中にユダヤ人ということでアウシュヴィッツ及びダッハウ強制収容所に送られ、その凄惨な体験を基に「夜と霧」を書き上げた。
引用の文章は「夜と霧」(池田佳代子訳)みすず書房から。

(鞭と飢餓と過酷な労働で、病に侵されて死者が続出する中で、ある日)

雪に足を取られ、氷に滑り、しょっちゅう支え支えられながら、何キロもの道のりをこけつまろびつ、やっとの思いで進んでゆくあいだ、もはやことばはひとことも交わされなかった。だがこのとき、わたしたちにはわかっていた。ひとりひとりが伴侶に思いを馳せているのだということが。

 私はときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まってた。今この瞬間、私の心はある人の面影に占められていた。精神がこれほど生き生きと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るく私を照らした。

  そのとき、ある思いが私を貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。

この体験からフランクルは、待っている仕事や待っている愛する人間に対して自分の責任を意識した人間は、自分の生命を放棄することができないのである。その人たちは、フランクルに寄れば「人生の意味」をしっかり自覚したものにほかならないのである。

フランクルは続いて、人間はもともと「意味への意志」、すなわち自分の人生をできる限り意味で充たしたいとの憧憬によって精神が吹き込まれ、それによって生きがいのある生活内容を得ようと努め、自分の人生からこの意味を闘い取る。この意味への意志は生きるのは何のためか、という生きる意味、生きる目的の追求である。それは人間独自の実存的欲求で、この欲求が充たされなければ、われわれは人間として充たされないのである、という。それはいかにして可能であろうか。

通常われわれは自分を中心にして人生の意味を問い、人生から何かを期待しようとする。自己中心から世界を見る見方である。ところが、このような見方では強制収容所のような絶望的な状況では耐えることができない。期待すべきものは何もなく、あるのは絶望だけだからである。ここで思考のコペルニクス的転回が必要である、とフランクルは言う。すなわち、自己中心的に人生に何を期待できるか問うのではなくして、逆に「人生は何をわれわれから期待しているか」という観点に変更されなければならない。くどいようだが、自己から人生を問うのではなく、人生から自己を問うのではなくてはならない。(略)われわれの生きていること自体「問われている」ことであり、生きていくことは答えることにほかならない。日々われわれは問われている。その要求に応じて、自らの使命を遂行することが、すなわち意味への意思を遂行することである。

  日々の要求に応ずる−私もいま問われている。迫り来る老いと死に、どう応えるかが

問われている。私は応えていかなければならない。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし、同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

〈以下は小生の文です〉

 青春時代に読み、書庫にあるフランクルの本。精神科医の分析で改めてその本質を知った次第。彼が収容所で耐え、生き延びられたのは愛する人(妻)の存在だと。その存在に対して強い意志が働き、人生の意味が存在するというのだという。その「人生の意味」をしっかりと自覚した者は自身の生命を放棄することができない、と。

五味川純平著「人間の條件」でも、主人公の「梶」が愛する妻の「美知子」のもとへ帰還することのみを考えて生き延び、その主眼でのみで生き永らえようと必死で闘い一人荒野を彷徨う。そして結果次のラストシーンへ。


もう直ぐだ。俺は苦しみばかりと並んで歩いて来たが、それももう終る。今夜、俺は君を見るだろう。君の声を聞く。手に触れる。思い出す。そう、失われたもののすべてを、今夜取り戻すだろう。
もう直ぐだからね。もう五分だけ、休ませてくれ。それから行く。必ず今夜のうちに帰り着くからね。
 梶は宵闇に音もなく舞い降りる雪のまにまに遥かな灯を眺めやって、幸福そうに幾度もほほえんだ。とうとう、さようならを云わずに済んだのだ。見果てぬ夢だったものが、そこにある。安らかに、瞬いて、待っている。あとは、体を休めて、元気そうに帰って行くだけである。美千子よ、君と俺の生活は、今夜からほんとうにはじまるだろう。
 梶は、そこが柔かいしとねであるかのように、背を伸ばして切株の間に寝た。美千子が戸を開けて、狂喜するに違いないその瞬間の顔と、奥でパチパチとはぜているであろう暖かい火の他は、何も考えなかった。

雪は降りしきった。遠い灯までさえぎるものもない暗い曠野を、静かに、忍び足で、時間が去って行った。雪は無心に舞い続け、降り積もり、やがて、人の寝た形の、低い小さな丘を作った。

 涙が静かに流れ落ちる悲しい終結だ。しかし、小説と違って原作者は生き延び、無事日本へ帰ってくる。もちろんその行程は小説と全く同じ凄絶な経験を経てのことだ。愛する人に遭うために、必死になって。愛する人が自分を待っていてくれるという思いだけで。そして満州から引揚をしてきて、電話をしたところ、彼が荒野を彷徨していたときに結核で死んでいたと。この経験が彼をして大作「人間の條件」(全6部)を書き上げたのだ。(もっとも小林正樹監督の映画化は全5部作〔実質は3部作〕で、全上映時間が9時間10分という世界一長編であることを付け加えておきます。映画の方は梶が仲代達矢、美知子が新玉美千代の主演。テレビ〔1963年頃放映〕では梶が加藤剛、美知子が藤由紀子の主演。この加藤剛の演技がとても素晴らしいものであった。)

 生きる意味があった原作者は無事帰ってくる。そう、愛する人の許へ帰りたいだけのために、人を殺しながらも。原作には「梶」も「美知子」も、その家族関係の背景説明は一切されない。たった二人だけの世界を中心に描かれている。生きる証をお互いの中に見つけ、そのためだけに行動する。が、梶の思想と信念から軍にタテをつき召集免除の恩恵を取り消され、軍隊に。そして壮絶な隊内生活…この辺りの描写は実に生々しい。でも野間宏著「真空地帯」の方が内容にしても文学としても優れている。映画も1級品だ。五味川純平の「戦争と人間」を映画化した山本薩夫監督で、1952年の作品。…から、ソ満国境へ。圧倒的なソ連軍の機動力の前に全滅する。わずかに生き延びた3人で満州の荒野を南へ南へと逃避行が続く。その途中で、開拓団として満州に移住しながら、軍隊からも政府からも見放されて同じように南へ逃げ惑う悲劇の住民を巻き込み、帯同しながらも、一途に「美知子」の許へ向かう。植民地満州で、軍隊内で、そして開拓団民を巻き込んでの逃避行にしても、その極限状況の中で、フランクルのいう、

『わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。』

 「人間の條件」の中で、極限状況の中で、人間の本質が露(あらわ)にされる。金が全てという人間から、娼婦であることから自らソ連兵に身を委ねて開拓団員の若い女性を救った人間、自己中心の人間、地位を笠に命令する人間、隊内リンチで耐えられずに自らの命を絶った初年兵、上官にへりくだって地位保全を図った人間、中国人を『ちゃんころ』と言って差別し、さげすむ日本人、等々。その中であくまで人間であることを意識し、人間性を常に保とうとした主人公が苦悩する中で、確かに愛する人の存在は彼を支え、生きがいとなったのは事実。そこにこの小説の真髄がある。
『人間』とは如何に愚かで弱く、簡単に人間性を捨てて生きるものなのか?

平時には偉そうに徳を説く人間が、極限状況の中ではたちまち人非人に成り下がってしまう真実。平時には隠れさていた人間の本質を、その変化をこの小説(「人間の條件」、「真空地帯」)では見事に描いている。

人間の条件 完結篇(1961)

解説

 

 

「人間の条件」第五・第六部で、その完結篇。脚色者に稲垣公一が加わったほかは、いずれも前作と同様のスタッフ。

あらすじ

 

ソ連国境でソ連軍の攻撃を受けた梶の隊は、梶と弘中伍長と寺田二等兵を残して全滅した。三人はただ歩いた。やがて、川に出た。そこには避難民の老師教夫婦や、慰安婦の竜子と梅子、部隊から落伍した匹田一等兵たちがいた。彼らは梶の指揮に従って歩きはじめた。飢えから倒れていく者が多くなった。丘の麓に、永田大尉の率いる一個中隊が休息していた。女連れの梶たちをののしり、食糧すら与えなかった。しかし、かつて野戦病院で一緒だった丹下が隊にいて、乾麺包にありつくことができた。林のはずれに一軒の農家を見つけ、彼らは豚を煮て大休止をした。が、それも束の間、民兵が家を囲み、竜子は悲惨な殺され方をした。生き残った六人はやっと道路に出た。日本人の避難民が行き、赤軍のトラックが通る。倉庫のような建物に三十人ほどの避難民の女がいた。叔父の家から北湖頭の自分の家へ帰る姉弟と一緒になった。一緒に南満へ行こうと勧めたが、どうしても家へ帰るといい、匹田と桐原が送っていった。「あの娘は適当に扱ってやったよ」という桐原を、梶は怒って追い出した。平坦な地平線に開拓部落をみつけた。老人や女ばかりの避難民。日本兵はここにきては食糧を荒していき、女たちには黒パンをもってくるソ連兵の方がよかった。突如、ソ連兵が向ってきた。女の「やめて、ここで戦争をしないで」という叫び声に、梶は呆然として降伏した。梶はソ連陣地に連れられていった。収容所には桐原がいて、捕虜を管理していた。寺田が大豆を盗んだことが発覚して、桐原は寺田をなぐった。寺田は高熱に苦しんだ。梶は寺田のかわりに作業をサボって食糧をあさった。桐原はソ連将校に告口をし梶はサボタージュの罰として重労働を言いわたされた。森林軌道の撤去作業についた。収容所へ帰った梶は、寺田が桐原になぐり殺されたことを知った。その夜、梶は寺田の殺された便所の裏で桐原をなぐり殺した。梶は鉄条網を抜け出した。やがて、雪が降りだした。「美千子、僕は君のところへ帰るよ」とつぶやきながら梶は倒れた。その上に雪が降りしきった。

最近ではマイケル・ムーア監督の『華氏9・11』の中に、2002年9月11日のテロ事件の第二報がブッシュ大統領にもたらされた時の場面(フロリダの小学校を訪問中)があるが、7分間どうしてよいのか判らず、小学校で生徒の朗読を聴きながらその教科書を開いていたのだ。そして、その眼は宙をうろつき、パニックに陥っていた。危機管理意識及び判断力の欠如と言えばそのとおりだが、アメリカの大統領としての資質を問われることは間違いない。この場面には前段階がある。第一報は補佐官から既に報告を受けてから、この小学校の教壇に立っていたのだ。補佐官がすばやく気を利かせて、大統領にワシントンへの連絡指示を誘導すべきだとは思うが、自身も判断をする場面ではある。

判断指示する以上、そのことへの責任は逃避できない。そしてこのことは戦争を引き起こした戦争責任の取り方にも及ぶ。

いったいこの大東亜戦争の責任はどうなっているのか?東京裁判で絞首刑になった東条英機を始めとする戦犯が全ての責任者であって、彼らの死でもって贖罪されたこととなるのか?彼らが表裏に画策したことは事実だが、最終的決断をしたその人物の責任は?

(最近生じた関西電力美浜原子力発電所タービン事故で、下請け会社の社員が熱湯で死亡した、その最終責任者は?そして、どう責任を取ろうとしているのか?…遺族に頭を下げ、責任を取って将来的には辞任との意向を示している。…しかし、雪印乳業事件で社長はこう言い放った。「私も寝てないんだ!!」この言葉を以って、彼は社会的に抹殺されたのみならず、多くの部下を不幸へ突き落として行ったのだ。)

いや、その戦禍をもたらした責任は全ての日本人、いや地球上の全ての人間の心の中で自覚し、フランクルの言葉を何度も反芻せねばならない。現実に、今でも戦争は地球上で切れ目なく重複して発生し、多くの人間が犠牲になっている。もちろん戦争をするその大義はどの戦争でも存在している。民族、人種、宗教そして国の名誉が犯されれば戦争をせざるを得ないと。それが自分達の尊厳だとも。でも、人間の命を奪うことが、名誉とか、尊厳を守ることの必然性にどう繋がるのかが理解できない。形態はそうであっても、実はその本質は自己中心的な利益誘導であり、経済的利益に対する欲望が根底にはあるのだから。その点を見ずして、民族、人種、宗教そして国の名誉を軽く言うべきではないのだ。日本はなぜ中国を占領し、南方へ進出したのか?日本の敗戦(これもなぜ「終戦」と政府は呼ぶのか?実態を隠蔽しているとしか思えない。)後、結果として独立した国々もあるが、その本質は市場を求め、資源を求めてであって、民族解放運動ではないのだ。それを利用し、その御旗で侵略して行ったのは一部において事実ではあるが、その本質を検証すれば、侵犯以外何者でもない。そのことも検証されず、最終責任者の処分も行われない不思議な国日本。責任者が責任を取らないから…戦後に右翼から政治家から多くが復権した。…、敗戦を終戦と称することから…広島・長崎への原爆投下という非人道的行為により、日本は戦争を終わらせた。天皇の英断により?…、旧満州での棄民とその後の中国残留日本人孤児の取り扱いから…満州移民を国家事業として邁進させながら…《残留》ではない。置き去った主体は国家。 《孤児》 年齢にそぐはないし、養父母に礼を失する。・・不自然な呼び名が与えられている背後に問題がある。ことばそのものが、戦後40年の歴史をきびしく問いかける。(井出孫六 『蒼氓は今もなお・・・』−「残留孤児」 その歴史と現在ー『終わりなき旅』(<世界>連載第一回、 856)…、                                      

靖国神社を明治以降の戦死者(軍人のみ)の御霊の霊所としたことから…軍人が戦死したその霊は靖国神社に??? では、空襲で死んだ一般市民は?…、ガス室を発明した人たちではなく、ガス室でただただ祈りを上げた人々のことをもう一度考えたい。しかし、祈りを上げた人たちのことを考えて行けば、行き着く先はガス室を作った人々のこと、設計図を引いた人々のこと、そしてそれを命令した人を考えざるを得なくなるのは必然だ。

「私は貝になりたい」というドラマが1958年にテレビ放映(生放送)され、昭和33年度の「芸術祭文部大臣賞受賞」を受賞している。 もちろん白黒の画面であった、このドラマを小生は見ている。この年に見たのか、再放送されたときに見たのか記憶はないが…。ただ、平成6年の再放送ではない。小学生時代の記憶として残っている…絞首台への階段を一歩一歩上ってゆく、フランキー堺の最後の場面で泣いた覚えがある…。

私は貝になりたい

☆☆☆この番組は☆☆☆

 TBSテレビが「ドラマのTBS」と言われ続けていた、その金字塔といわれている番がある。それがこの「私は貝になりたい」というドラマである。

  • 内容は、戦時中上司の命令でアメリカ人捕虜を殺してしまい戦時裁判で死刑を宣告される、床屋の亭主の生涯を綴る番組で昭和33年度の「芸術祭文部大臣賞受賞」を受賞。
  • この番組は当時画期的な番組で90分番組の約半分の45分がVTR収録によるもの。また、残りの半分が生放送と言うものである。当時生放送ドラマは当たり前だったのだが、VTRを使用した始めてのドラマと言われている。その証拠に、現在でもVTRが残っている。

オープニングは、東上英機のA級戦犯会議の場面で始まる。

フランキー堺扮する清水登松は、床屋を営んでいる。

その清水にも、赤紙が届く。

時はかわり終戦後。床屋業に戻るが戦争中に米国人を殺したと言うことで進駐軍に逮捕。しかし、意気地が無くて実際には殺せなかったのが実情。でも、判決は絞死刑・・・・。

そして、死刑になる直前に家族に当てた手紙のなかでその思いを書き記す。「もし、生まれ変わるなら私は貝になりたい・・・・」

終り。この番組は、平成6年の再放送されました。

昔の番組の資料を集めております。情報頂ける方はご一報下さい。よろしくお願いします。

放送リスト


私は貝になりたい

公開:1959
制作:東宝
監督:橋本忍
助監:
脚本:橋本忍
原作:加藤哲太郎(遺書)
撮影:中井朝一
音楽:佐藤勝
美術:村木与四郎
主演:フランキー堺
寸評:「よさこい節」をアレンジした主題曲が泣ける。ブルーリボン賞・助演女優賞・新珠三千代

 本作品はテレビドラマとして放送されたものを劇場公開用映画にリメイクしたものです。モチーフになった遺書についてトラブルがあったらしく、原作・橋本忍、遺書・加藤哲太郎とテロップされます。

 太平洋戦争の末期、高知県で妻・新珠三千代と一緒に床屋を営む清水豊松・フランキー堺のところに召集礼状が届きます。
 豊松は生来のお人よしなので非人間的な軍隊ではヘマばっかしていて立石上等兵・小池朝雄に目をつけられてしまいます。ある日、豊松の部隊の近くに米国機が墜落し二人のパイロットが捕虜になるという事件が起きました。

 戦意高揚のため部隊長・南原宏治(当時・伸二)は捕虜を銃剣で刺殺するよう命じます。すでに絶命していた捕虜目がけ豊松は必死に突進しました。戦後、高知に戻った豊松のところにMPと警察がやって来て、豊松は戦争犯罪人として逮捕されました。罪状は「捕虜虐待」。豊松に下った判決は死刑でした。

 残された妻と子供の事を案じた豊松は「今度生まれ変わるならもう人間になるのは嫌だ、私は深い海の底の貝になりたい」と遺書を残して処刑されていきました。

 近年、テレビでリメイクされたのを見て感動した、という人はただちに、本作品を見てくださいね。情緒性においてまるで比較にならないくらい、映画のほうが、そしてオリジナルのテレビ作品のほうが胸に迫るできばえであることに気がつくでしょう。

 フランキー堺と同房になる若い将校を演ったのが中丸忠雄でこれは設定も良かったんですがとても印象に残る役どころでした。おまけに大先輩の原節子さんに直接「あなた、いいわよ」と誉められたんだそうです。将校は妹が差し入れてくれたという聖書を手にしているのでたぶんクリスチャンなんでしょうね。いつも物静かで豊松にいろいろと世話を焼いてくれます。おそらくはただ一人の(生き残った)身内である妹を残して死ななければならない彼の「嫌な時代に生まれて嫌なことをしたものです」という台詞に、観客は彼(と豊松)に深く共感できるのです。

 豊松がいよいよ処刑される日、教戒士がやってきます。これを笠智衆が演じました。豊松は一言も声を発しません、押し黙り緊張しています。笠智衆が豊松の肩に手を置いて慰めようとした瞬間、豊松は教戒士の体にしがみつくのです。それは豊松の執念であり未練です。母親に泣きすがる子供の様でもありどうしようもない運命に対する最後の抵抗です。しかし豊松の腕は静かにふりほどかれてしまうのです。

 圧倒的な絶望感に、豊松と観客は包まれます。

 最後まで豊松を弁護してくれた矢野中将・藤田進が処刑されたことには疑問を抱きませんでしたが、戦地で指示を出した上等兵は実行犯ではないからと死刑を免れていて、なんという矛盾だろうかと、怒りすらこみ上げてくるのです。

 あくまでも美しく無垢な豊松の妻、父の帰りを信じて平和がおとずれた浜辺を全力で駆けて行く豊松の長男。その姿に「今度生まれてくるときは房枝(妻)や健一(子供)のことを心配することもない、深い海の底の貝になりたい」というフランキーのナレーションがオーバーラップします。

 当時、日本全国にたくさんいたであろう「清水豊松」すべてにこの映画は捧げられているのですね。戦争が個人の幸福をいかに残酷に略奪するのか、この映画はじっくりと語りかけてきます。

19960823日)

↑「GOO」の映画情報から

 

1994.10.23付  朝日新聞・社説より

     戦争犯罪をかみしめる

         戦後50年明日を求めて

 「もう人間なんていやだ。いっそ深い海の貝になりたい」

 戦犯役のフランキー堺が、処刑の直前につぶやく独白で有名な、橋本忍脚本のテレビドラマ「私は貝になりたい」が、三十六年ぶりに再製作され、今月三十一日にTBS(東京放送)系で放送される。  太平洋戦争の末期に召集された好人物の理髪店主、清水豊松(今回は所ジョージ)が、ひん死の米兵捕虜を刺殺した戦犯として復員後逮捕され、絞首刑に処せられる。

 豊松は巣鴨プリズンの中で言う。「確かに、命令によって捕虜を銃剣で突いた。しかし、肝っ玉が縮み上がっていたので、突くには突いたが捕虜の右腕に突き刺さっただけ。おかげで上官から臆病者、班の面汚しだと殴られた」。そして「上官の命令は天皇陛下の命令だった。それに従ったことが、なぜ罪に問われるのか」と憤る。  ここには、現代にもつながる普遍的な問題が横たわっている。

 豊松個人の意思・行為と、日本軍ないしは国家という組織の意思・行為との関係をどうみるかということだ。  豊松に象徴されるBC級戦犯だけの問題ではない。戦争指導者という違いはあるものの、東条英機元首相らをA級戦犯として極東国際軍事裁判(東京裁判)にも通ずる問題であり、さらには戦前の天皇制や日本人全体にかかわる問題である。

 これらの戦争犯罪の裁判は、戦後の日本にとってどういう意味をもったのか。半世紀近くを経て、その実相を見つめ、未来への伝言をかみしめたい。     

  「正義のものさし」とは

 一九四五年八月に日本が受諾したポツダム宣言には「戦争犯罪に対しては厳重な処罰をする」との条項があった。翌四六年四月、A級戦犯二十八人が起訴され、四八年暮れに東条元首相ら七人の絞首刑が執行された。BC級裁判では朝鮮、台湾人を含む九百人以上が処刑された。五二年発効のサンフランシスコ平和条約で、日本はこれらの裁判を受諾した。

 もともと戦争裁判は、私達が考える通常の裁判とは性格や意味合いが大きく異なるし、国際社会における「正義のものさし」は、今でもみつかったとは言い難い。   日本の侵略や残虐行為を裁き、連合国側の残虐行為を問わなかった「不公平さ」も「勝者の裁き」という説く誠意に伴うものだ。

 国際政治の影響も大きかった。東京裁判の判事は11ヶ国から出ていた。量刑や侵略についての判断は、判事によってかなり分かれたが、結局は米国主導に終始した。占領政策のスムーズな遂行と冷戦の進行などのからみの中で裁判は進み、天皇不起訴も決まった。

 BC級裁判では、言葉や文化・習慣の違いなどの審理上の障害が特段にあったにせよ、きちんとした証拠による裁きといえないような法廷や「冤罪」も少なくなかったとされる。

 国民は、これらの裁判をどう見ていたのだろうか。  

    「開戦より敗戦の責任を問う」

 米国務省情報調査局が四八年にまとめた「A級戦犯裁判に対する日本人の反応」を調べた粟屋憲太郎立教大学教授(現代史)によると、「敗戦による宿命的なものとして受け入れるというもので、被告に対しては、彼らの戦争犯罪による戦争責任よりも、国家を敗戦に導いて著しい汚辱と不幸をもたらした責任の方に集中していた」。

 肉親を奪われ、家を焼かれ、食うや食わずだった国民の多くは、被害者意識を抱いていた。「開戦の責任」よりも「敗戦の責任」を問う視線を被告達に向け、連合国が日本人に代わって「代理裁判」として断罪しているとも見ていたようだ。

 日本政府は厳しい追及を避けようと、「自主的」な戦犯裁判を意図し、ごく一部は軍法会議の形で行われた。しかし。連合国総司令部(GHQ)は、それを禁じた。日本人自らの手で、国家と個人責任の問題を問う場はなかった。

 やがて、冷戦の激化とともに、核兵器の開発競争やベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、大国の倫理が問われるできごとが続き、「連合国の正義」は色あせた。

 しかし、裁く側や裁判に多くの問題点があったからといって、東京裁判によって多くの国民が初めて知った日本の侵略とその責任が消えるわけではない。それを問いかける動きがないわけではなかったが、国民全体として自らの手を見つめるというところまでは至らなかった。 「私は貝になりたい」という言葉は、戦犯として巣鴨にいた元捕虜収容所長、加藤哲太郎さんがペンネームで書いた手記の中にあった。

 加藤さんは、逃走を企てた捕虜を部下が殺したとされる事件で死刑判決を受けたが、家族たちの嘆願が実って減刑され、テレビの「私は貝になりたい」が放送された年に釈放された。翌年「婦人公論」に発表した手記の中で、こう書いている。

 「私自身の考えが徹底を欠き、善意はあっても結局は長いものに巻かれてしまう性格の弱さが、しみじみ悔やまれました」

 この「弱さ」は、一個人のものではないだろう。人間にとって最大最悪の局面である戦争において、例えば「捕虜を突け」というような国家の命令に服従しないことは、絶望的に困難なことだ。しかし、手を下せば人間として問われ、法に照らしてその責任を問われる。

 「私は貝になりたい」を小学校時代の映画教室で見た時の衝撃を持ち続け、東京裁判を問い直す研究などを続ける大沼保昭東大教授(国際法)は「結局は、少数者を大切にする社会、大勢に従わないで生きる勇気を評価する社会をめざすことではないか」という。    

    繰り返すな「真空地帯」

 日常の仕事や暮らしの中で、組織と個人のせめぎあいを見つめてゆくことも必要だろう。困難なことだが、人を、所属する組織や集団とのからみで見るのではなく、個人として向き合う姿勢が大切だ。

 橋本忍さんは「あのドラマが注目された理由の一つは、序列と縄張りのはびこる『群れ社会』の中で、さまざまなしがらみにとらわれつつ生きている人々の共感を得たからではないか」と言った。

 「しがらみ」とは、個人にかぶさってくる組織の論理で、「利益」「効率」「一体感」の追求といった形で現れる。その究極の一つが戦場の軍隊であろう。

 そうした「真空地帯」を二度とつくることなく、人間が自然に意思表示できるような世の中や国をめざしたい。  それが、世界で何千万という命を失った果てに、人類がようやくつかんだ、みらいへの伝言だったのではないだろうか。      (1994/10/23)

真空地帯(1952)

 


解説

 

日本軍隊生活を始めて本格的に描いて毎日出版文化賞を獲得した野間宏の

長篇小説『眞空地帯』の映画化で新星映画の嵯峨善兵、岩崎昶の製作により

北星映画の配給になるものである。山形雄策の脚本を「箱根風雲録」の山本

薩夫が監督している。出演者の主なるものは「暴力」の木村功、「今日は会社

の月給日」の利根はる恵、「泣虫記者」の岡田英次、「嵐の中の母」の沼田曜

一のほかに、薄田研二、神田隆、下元勉など、民藝、新協、青年俳優グループ

が出演している。

あらすじ

 

週番士官の金入れを盗んだというかどで、二年間服役していた木谷一等兵は、

すでに四年兵だったが、中隊には同年兵は全くおらず、出むかえに来た立澤准尉も班長の吉田、大住軍曹も全く見覚えのない人々であった。部隊の様子はすっかり変わってた。木谷に対する班内の反応はさまざまであった。彼は名目上病院帰りとなっていたが、何もせず寝台の上に坐ったきりの彼は古年兵達の反感と疑惑をつのらせた。木谷が金入れをとったのは偶然であった。しかし被害者の林中尉は当時反対派の中堀中尉と経理委員の地位を争って居り、木谷は中堀派と思いこまれた事から林中尉の策動によって事件は拡大され、木谷の愛人山海樓の娼妓花枝のもとから押収された木谷の手紙の一寸した事も反軍的なものとして、一方的に審理は進められたのだった。兵隊達が唯一の楽しみにしている外出の日、外出の出来なかった木谷は班内でただ一人彼に好意をもっている曾田一等兵に軍隊のこうした出鱈目さを語るのだった。班内にはさまざまな人間がうごめいている。地野上等兵の獣性、補充兵達の猥褻な自慰、安西初年兵のエゴイズム。事務室要員の曾田は軍隊を「真空地帯」と呼んでいた。ここでは人間は強い\8f\a5\f9力で人間らしさをふるいとられて一個の兵隊--真空管となるからだ。或日、野戦行十五名を出せという命令が出た。木谷は選外にあったが、曾田は陣営具倉庫で、金子班千葉県有為が隣室でしつこく木谷を野戦行きに廻す様に准尉に頼んでいるのを聞き驚いた。金子班長はあの事件の時中堀派の一人として木谷の面倒をみたのだが、今は木谷との関わり合いがうるさかったのだ。木谷が監獄帰りと聞こえがしに云う上等兵達の言葉に木谷は猛然と踊りかかっていった。木谷を監獄帰りにさせた真空地帯をぶちこわそうとする憎しみに燃えた鉄拳が彼等の頬に飛んだそれから木谷は最後の力をふりしぼって林中尉を探しまわった。彼に不利な証言をした林中尉に野戦行きの前に会わねば死んでも死にきれなかった。ついに二中隊の舎前で彼を発見した。彼の必死の弁解に対し木谷の拳骨は頬にとんだ。やがて、転属者が戦地に行く日が来た。花枝の写真を懐に抱いて船上の人となった木谷に、ようやく自分をきりきり舞いをさせた軍隊の機構、その実態のいくらかがわかりかけてきた。見知らぬ死の戦場へとおもむく乗組員達の捨てばちな野卑な歌声が隣から流れてくる。しかし木谷の眼からはもはや涙も流れなかった。

 戦争中、上官の命令により捕虜を銃剣で刺して殺したということで(実は捕虜の腕を刺しただけ)、善良なる床屋清水登松が戦後に戦犯容疑で逮捕され、絞首刑にされてしまう。旧日本軍隊の組織では上官の命令に逆らうことは不可であり、「上官の命令は朕の命令と心得たリ」が徹底して教育されていた。その中で、床屋は命令通りの行動をとった、何の犯罪意識も無く。しかし戦後になって、その行為でもって彼は戦犯に処せられてしまう。客観視すれば、清水登松は捕虜への虐待行為を自分の意思で避けられなかったのか?なぜ、上官は刺殺命令を出したのか?もっと言えば上官は人間性についてどう考えていたのか?軍事裁判で彼は清水登松に対しての援助や救援の手をなぜ差し伸べなかったのかという疑問も湧く。

全ては戦争という極限状況の中でのこと。狂気の世界であって、平時では起こらないことが起こる状況だ。それが戦争。だから、清水登松は捕虜への虐待行為をしてしまい、戦後に絞首刑に処せられた。誰が悪いとは言えない、と。こういうことで戦後の日本を形作っていると言えまいか?

 フランクルの本の話からどんどん膨らんで、「私は貝になりたい」まで行ってしまいました。常日頃からいろいろ考えていることが一つに繋がったとも言えるかもしれません。

 2003年9月、プノンペンを旅し、「トゥール・スレン収容所」を見てきました。ポル・ポト派が、知識階級層、富裕層の人々を反人民として処刑したところです。いろいろな拷問器具があり、部屋の床には血の跡がしみになって黒っぽくいまだに残っており、処刑された人々の写真が限りなく貼られていました。

Tuol Sleng/Killing Field

ポル・ポト時代の傷跡


1975年、政権の座に就いたクメール・ルージュ(ポル・ポト派)は、急進的な共産主義政策を推進するあまり、強制労働や組織的な虐殺などで国民の実に1/4とも言われる人々を死に追いやりました。「歴史」というにはあまりに新しすぎる残酷な記憶が、未だ国民を悩ませ続けています。

トゥール・スレン虐殺博物館

 

 

鉄条網

虐殺の中心だったトゥール・スレン刑務所、別名「S-21」。プノンペンの街中にあるこの建物は当時の高校を転用したものです。教育の場が大量殺人の舞台となったのです。

 

墓地

ポル・ポト派をプノンペンから追い出したベトナム軍がこの建物に入った時、尋問室のベッドには殺されたばかりの遺体がいくつか転がっていました。その人々が眠っています。

 

拷問場

S-21」に収容された人々の容疑は主にスパイ。自白を強いるための拷問も頻繁に行われました。たとえば、鉄棒に逆さ吊りにし水を溜めた甕に頭から沈めるとか。

尋問室

部屋の中には布団もない鉄製のベッドだけ。その上に容疑者を足枷で括り付け、尋問は行われました。いや、正確には尋問すら行われま

せんでした。ここはただ「死への待合室」だったのです。


発見の時

絵画ではありません。トゥール・スレンをポル・ポト派から「解放」したベトナム軍が撮った写真です。ベッドの上には息絶えた人、床には夥しい血が拡がっていました。人間はここまで残酷になれるのです。






20年以上経った今でも、部屋の中には死臭が残っていました。こびり付いた血はいくら洗っても取れなかったのでしょう。何を言ったらいいのか。どう振る舞えばいいのか。しばらくその場を動けませんでした.

記録写真

トゥール・スレンに収容された人々はまず写真を撮られ、その後に殺害されました。一説では、これらの写真は「革命の成果」として中国の毛沢東政権に送られていたとも言われます。折りしも文化大革命の頃。

独房

広い教室を区切って独房も造られていました。壁は即席の煉瓦積み。一部屋の広さは畳一帖あるかないか。窓はなく、ほとんど光も射し込みません。鎖につながれた囚人はこんなところで死を待っていたのです。壁際に小さく開いた穴がトイレ代わりでした。

収容所

ポル・ポト派が政権の座にあった3年8ヶ月、トゥール・スレンには2万人もの人々が送り込まれました。そのうち生きてここを出ることができたのはわずか7人。何がポル・ポトをこのような尋常ならざる虐殺に走らせたのか。人々はまだ語ろうとはしていません。

拷問の様子

当時の拷問の様子が描かれた絵が残されていました。長い鉄棒に一列に脚をつながれ床に寝かされた人々。これが家畜でも動物愛護団体から抗議がきそうだと思いませんか。

髑髏の地図

展示の最後を飾るのは犠牲者の頭骨(もちろん本物)で作ったカンボジアの地図。しかし、あまりに悪趣味だと内外から強い非難を浴びたため、今は見ることができません。

   
    
   
        
キリング・フィールド
プノンペンから車で30分あまりの郊外にあるチュンエク村。トゥール・スレンで殺害された人々は空き地に掘られた穴に「捨てられ」ました。最盛期には遺体を運搬するトラックが一日に何度もプノンペンとの間を行き来したそうです。しかし、このような場所はここだけではありません。カンボジア全土に何ヶ所もあるのです。

墓地というには

率直な感想を言いましょう。ここはまるでゴミ捨て場です。ポル・ポト派にとって国民とはそのような存在だったということなのでしょう。あまりに哀しすぎるけれど。

遺骨

現在では掘り出された遺骨が一ヶ所に集められ保存されています。しかし身元は判明していません。あまりに短期間に大量の人々が殺されたため調べようがないのです。

慰霊塔

カンボジアの人々はほぼ例外なく虐殺で肉親の誰かを失っています。案内してくれたガイドさん曰く「ここのどこかに父が眠っています」。私たちに返す言葉はありませんでした。

ナチスドイツが行った行為と同じことが、1975年にプノンペンを制圧したポル・ポト派によって引き起こされました。100万人とも、200万人とも言われている死者数がその悲劇を物語っています。フランクルの言う、ガス室を発明した人がカンボジアにもいました。

そして当然のごとく、なぜ?どうして?という疑問が湧いて来ます。

小生はこの一文に少し書いたつもりではいるのですが…。

  

最後に。

もしあなたが「私は貝になりたい」の主人公、床屋の清水登松の立場であるとすればどのような行動をとったかをお聞かせください。